バレリーナ Anna Pavlova アンナ・パヴロワ [b82]

バレリーナ Anna Pavlova アンナ・パヴロワ [b82]

販売価格: 5,800(税込)

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商品詳細

イギリス1913年消印。写真ポストカード。Real Photo

アンナ・パヴロヴナ・パヴロワ
(Anna Pavlovna Pavlova, 1881年2月12日 - 1931年1月26日)は20世紀初頭のロシアのバレリーナ。

サンクトペテルブルクの貧しい家庭に生まれる。戸籍上は退役兵マトヴェイ・パヴロフと洗濯婦リュボーフィ・フョードロヴナ・パヴロワの娘となっているが、本人によれば、実父はマトヴェイとは別人で2歳のときに亡くなったといい、1913年の新聞報道ではユダヤ系銀行家ラザル・ポリャコフの私生児とも報じられ、真相は謎に包まれている。

9歳の頃、母親とともに 『眠れる森の美女』 の初演を観てバレエダンサーを志す。色白・細長の顔に狭い肩幅、美しい足という理想的な体型を持っており、最晩年のM・プティパに才能を認められたため、貧しい家の出であったにもかかわらず順調な昇進を果たした。1903年、プティパによる改訂版『ジゼル』 で成功を収めたほか、バレリーナ昇進後の1907年には慈善公演でM・フォーキン振付の小品 『白鳥』[3]を踊って話題となった。後者はのちに 『瀕死の白鳥』 と呼ばれるようになり、パヴロワの代名詞のようになった。

1911年、自前のバレエ団パヴロワ・カンパニー (Pavlova Company) を作る。翌年ロンドンに移住し、英国を中心に世界を巡演した。1922年 (大正11年) に全国8都市で行われた来日公演では西洋舞踏を初めて日本に広く知らしめ、のちに日本においてバレエが定着・普及するきっかけを作った。このため、エリアナ・パヴロワ、オリガ・パヴロワ (オリガ・サファイア) とともに日本バレエ界の恩人「三人のパヴロワ」の一人に数えられている。

1931年1月、風邪をこじらせたまま巡演に出発し、肺炎となる[2]。症状はさらに悪化し、オランダのハーグ到着後に胸膜炎と診断された。外科手術を勧められたが、手術をすれば舞踏手としては再起不能になると告げられたためにこれを拒否し、闘病の末に亡くなった。50歳没。
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